“路頭に迷う”被災地
昨日(13日)は石川啄木の命日(1912年4月13日)でした。筆者は東日本大震災の被災地である宮古市、山田町そして釜石市に立ちました。
12日23時10分、東京駅発の深夜バスに乗車、翌朝6時30分盛岡駅着。みちのく事務所で少し横になって休息、仕事明けの泉山理事と一緒に宮古市に向かったのが9時30分頃でした。2時間ほどで宮古市に到着、港から6㎞程にあるボランティアセンターで登録を済ませ被災した市内に向かい、被災した団体賛助会員の皆さんにお見舞いを渡しました。それから2時間後に釜石市に到着。団体賛助会員である山崎さんとお会いしました。彼は自宅が流失されたにも関わらず、救援ボランティアに駆けつけている皆さんのアドバイスをしていました。彼にお見舞いを渡し、救援ボランティアの状況を聞きました。その後、ボランティアセンターで救援活動の意思を伝えてきました。今日(14日)山崎さんに電話してみると、ボランティアの方々と現場で後片付けをしていました。
今回、現地に立った分かったことは、団体賛助会員(岩手県)の内本人死亡が1人、会員の家族(3親等)の死亡・行方不明者が47名、自宅と社宅の流失が16名であったことです。そして未だ確認が取れていない方々が数人いるということでした。そして、被災状況に関して色々と言われていますが、実際自分で現場に立って被災状況を見ると“路頭に迷う”、“途方に暮れる”ということでした。大地震と巨大津波がおお暴れして全ての生活手段が目の前で、家族や親戚の尊いいのちが失ってしまったのが被災地でした。反面、巨大津波が襲わない地域では普通の暮らしが営まれていました。一方では路頭に迷っている被災者、他方では普段の生活をしている皆さんの様子を見て、これが現実なのかと思いました。
この場で改めて決意したことは啄木がサルに扮して人間へ警告していたこと(「人間は祖先を忘れ、自然にそむいている。ああ、人間ほどこの世にのろわれるものはないだろう」:『サルと人と森』より)を生活に、経済と政治に反映させていかなくてはならないことでした。啄木は100年も前から“自然と共に生きていく”という生き方を世の人間に警告していました。
今後、宮城県、福島県の団体賛助会員の皆さんにもお見舞いを届けていきます。
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