キツツキ(啄木)のドラミングは現代人への警鐘?
久しぶりの春雨が降り、森の生きものたちは気持ちよさそうでした。早朝の森には月明かりが届き、暫く月を見ていると自然光の有難さが伝わってきました。
ところで、『サルと人と森』を呼んだ“森とも”の皆さんからのコメントを読み、啄木の理想郷はどんな社会なのか、を知りたくなりました。絵本を編集する時に知った「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど」という詩を想いだしました。
この詩を教えてくれた『サルと人と森』の現代語訳を担当した山本玲子さん(元啄木記念館学芸員)に、そのヒントを聞きました。
啄木は、『歌稿ノート』に「墓碑銘」(1911年6月)という題で、フレームアップ事件(1910年5月大逆事件)で逮捕され、1911年1月に処刑された宮下太吉さんをモデルにした詩を綴っています。
この詩には「今日は5月1日なり、われらの日なり」という一節があり、最後の一行には「われには何時にても起つことを得る準備あり」と歌っています。
啄木は1908年、釧路で西川光二郎の講演(社会主義講演会)を聞き、その後も、大逆事件にでっち上げられて処刑されてしまった幸徳秋水等の非公開公判で弁護士をしていた平出修の裁判資料を読んでいた、と言われています。
啄木は社会主義思想に興味をもっていたのでしょうか。そういえば15歳の啄木は、「夕川に葦は枯れたり 血にまどう民の叫びの など悲しきや」という詩とカンパを田中正造へ送り、激励・連帯していたことも思い出しました。
25歳になった啄木は、当時の社会現象を詩にまとめあげ、それを具現化することに詩の価値観を見出していたのかもしれません。生物社会と人間社会に起きている社会現象を見極め、自由・平等・博愛の社会を描いていたのでしょうか。
生きている内に出版できなかった「悲しきかな玩具」は、啄木の理想郷を実現する志を、未来を生きる若者たちへ伝えたかったのではないでしょうか。子供の日の今日、未来を生きる子供たちに大人の義務を果たす決意を改めたいものです。(理事 高橋佳夫)
コメント