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2009年2月24日 (火)

農業も生物多様性だ!問われている食と農

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 1月27日から始めた米の実験から約一ヶ月経ちます。本日の朝、私が食べている米をコップに入れ、同量の水で浸していた米の色を観て、臭いを嗅ぎました。色は写真のとおりですが、臭いは酒粕の臭いがしました。当初は、黒いカビが被って、耐えられない異臭が出るのかと思っていましたが、木村秋則さんが話していたように、ハンカチや手ぬぐいを用意しなくともよかったです。この状況を木村さんに報告し、コメントを頂戴したいと思っています。この米は実家の弟が生産してる米ですので、弟にも話を聞いてみようと思います。
 ところで昨夜は、19時からある環境ゼミで講義を受けました。講義は、「生物多様性と新しい農業政策の方向」というテーマで、山田優(日本農業新聞編集委員)さんが講演してくれました。
 私の感想は、食も極めて政治の問題であって、農家の皆さんも「減反・補助金漬け」から脱する決意が求められているし、消費者も単なる「有機栽培・安全」だけを求めるのでなく、生産者も消費者も植物から生かされていることを改めて認識し、これをベースにした政策を政治に求めていくことが大切である、ということでした。政治を動かすには、意思した民衆の力を大きくしていかなくてはいけない、と感じました。(下の写真は、1ヶ月前の米です)
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「渡良瀬・川俣事件踏査」に参加して

今回、森びとプロジェクト委員会の方が「渡良瀬・川俣事件踏査」に行かれると言う事でお願いして同伴させて貰いました。どうしてもこの「渡良瀬・川俣事件踏査」に行きたかったのは、最近初めて映画「襤褸の旗」をビデオで見ることが出き、この映画を観たとき、今住んでいるこの日本の中に国や政府によって苦しめられた労働者が以前から多くいる出来事があるのだという事をあらためて知り、何と無く今の世の中の現状と、ぴったり一致するような気がしました。また、映画を見ただけでは土地勘がつかめず、谷中村がどこにあり、足尾とどのように繋がるかがはっきりと分かりませんでした。更に、妻に田中正造の事を話すと、名前は学校で聞いて知っていると言いましたので、それでは一緒にと無理を承知にお願いしました。
最初に向かった所は谷中村跡地で、周りは高さ2M以上もある「葦(よし)」がうっそうと茂っている群生地の中を車で向かって行きました。始めは、いったいこの「葦(よし)」の群生地のどこへ行くのだろうと不安な思いがしました。やがて、公園にたどり着き、ガイドの方に連れられて行くと、谷中村の「雷電神社」跡や「延命院」跡に行きました。後といってもそこは、こんもりとした丘があり、そこは当時の蔵の跡地だということを教えてもらいました。その蔵に食料や生活日種々品を蓄えて置けば、水害にあったとき備蓄しておいた物で急場を凌(しの)ぐことが出き、また蔵の上のほうには船を準備して置き、水没してしまった場合はそれで移動をするという、先人たちの知恵が活かされている場所であることが良く分かりました。しかし先ほども述べたように、あたり一体が「葦」で覆われているため、こんな所に歴史的に貴重な跡地がると言うことは、此処に来なければ全くわからないと思います。以前は、この丘までもがブルドーザーで壊そうとしたそうです。
ここの「葦」で作った「葭簀」は貴重なもので、なかなか地元の人でも買うことが出来ないといっていました。
次に田中正造の墓地と、映画の始めに出てくる請願に向かうため集った場所の「雲竜寺」に行きました。「雲竜寺」には当時の田中正造の書いた書物等があるそうです。
最後に、農民と警官隊がぶつかる利根川沿いの「川俣の闘い」があった場所にいきました。気が付きませんでしたが2月13日の、今日がその日であったということを現地に行って知りました。そこには新しい記念碑が置かれていました。映画でもその衝突するシーンを見ていましたので改めてその場に立つと心に込上げてくる物がありました。しかし、なぜ農民が苦しいと訴えたいのに警官隊が阻止をするのでしょうか。警察とは「悪いやつを捕まえる」そういうところではないでしょうか。彼ら農民はワルイヤツラなのでしょうか。しかし、このような歴史もやっと最近になって陽の目を見るようになって来たそうです。ここにも歴史の真実を伝えていくことの難しさがあったのだと思うと悔しくてたまりません。
その地で、今は亡くなられましたが、当時のことを語られていた方の奥さんに出会いました。その方の家は「川俣の闘い」があったとき、傷ついた農民たちを手厚く看病したと聞きました。奥さんは最近、腰を痛めたということで直接お話までは聞けませんでしたが、その方とお会い出来たのは運命的な出会いなのかもしれません。
私は今、足尾で植樹活動をしていますが、これからは、もっともっときれいな水が渡良瀬川に流れ少しでも鉱毒に苦しめられた彼らの思いに報いるようなことが出来ればと思い、一本でも多くの苗木を植えられるよう努力して行きたいと思います。

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